ちゃぷれんのこらむ

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11月のこらむ (2024年11月01日)

太陽の10倍のスピード?

~物語を読むということ~

太宰治の『走れメロス』という小説があります。中学校の国語の教材にもなっており、誰もがよく知っている小説かと思います。あるテレビ番組で安住紳一郎アナウンサーが、この『走れメロス』について、興味深いお話をされていました。

太宰治という小説家は、特に小説の中での状況説明が非常に上手なのだと言います。例えば、メロスがラストスパートをかけたときの描写がそうです。ものすごく速く走るという表現ですが、太宰治は、これを比喩、直喩でもって、誰もが考えようとも考えることのできない仕方で描いています。メロスは、「少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。」

どういうことでしょうか。このことについて真面目に研究をした柳田理科雄という大学の先生がおられます。その先生の研究によれば、次のようになります。コペルニクスの地動説に従うと、太陽のスピード=地球の自転のスピードということになりますから、これが1,300km/hになるそうです。それで、1,300km/hの太陽の10倍のスピードとなりますと、どれくらいになるか計算すると、マッハ11になるのだと言います。これは新幹線のぞみ号の44倍の速さになります。

とても面白い研究ですね。そのように科学的知見ではあり得ないほどの、あえて大きく話をすることによって、物事が膨らみ、それによって本当に伝えたいことが伝わる。それが物語の面白みであるのだと安住アナウンサーは言っておりました。

聖書においても、そのような物語としての描写が色々なところで垣間見れます。例えば、ある日、大勢の人がイエス様のところに集まってきました。夕方になり、みんなお腹を空かせています。そこに5つのパンと2匹の魚がありました。イエス様は、それを5千人もの人々に配り、みんなお腹がいっぱいになったのだと言います。

このように聖書の物語においても、実際にはあり得ないような描写を通して、イエス様の恵みの大きさを伝えようとしています。これからも園での礼拝において、聖書の物語を子どもたちに楽しく読み聞かせていきたいと思います。


10がつのコラム (2024年10月01日)

「天国のドア叩く」

京都出身のバンド「くるり(Quruli)」の『ロックンロール』という歌を何気に聴いておりましたら、ふいに次の歌詞が心に響いて来ました。

「裸足のままゆく 何も見えなくなる 振り返ることなく 天国のドア叩く」

「天国のドア叩く。」これは一体何を意味しているのでしょうか。

「天国」と聞くと、まず私たちは、大空を見上げて、空高いところをイメージするのではないでしょうか。聖書においても、天国をそのように空と星の空間として表現している部分があります。けれども、天国にはもう一つの意味があります。それは、象徴的に、神さまがおられるところ、それが「天国」であるということです。そこには、私たちの喜びがたくさん秘められています。

神さまは、単に私たちの遠くにおられるだけでなく、いつも私たちの近くにいて、私たちと一緒にいてくださっています。ですから、神さまがおられるところの天国は、私たちのすぐ近くにあるのです。

うれしい時も悲しい時も、私たちは、神さまにお祈りすることを通して、「トントン」と「天国のドア」を叩きます。その時、目に見えなくとも、神さまがおられるところ、私たちの喜びがたくさん秘められている「天国のドア」が開かれます。


9がつのコラム (2024年09月01日)

〈チャプレンのコラム〉

「時間が止まればいいのにな」

ザ・ハイロウズというロックバンドが2000年にリリースした『青春』という歌を思い出しました。そこに次のような歌詞があります。

「時間が本当に もう本当に 止まればいいのにな

二人だけで、青空のベンチで 最高潮のときに」

校庭のベンチでしょうか。恋する二人が、ドキドキしながら、幸せそうに微笑み合っている情景が、この歌詞から浮かび上がってきます。二人にとって、それは、まさに喜びの瞬間であったことでしょう。この世には、つらく悲しいことがある中で、この喜びの瞬間が過ぎ去らずに、このままずっと続いてほしい。その想いが、「時間が止まればいいのにな」という言葉に溢れています。

聖三一幼稚園の礼拝では、毎回「主の祈り」を唱えますが、その祈りの中に「み国(みくに)が来ますように」という文言があります。「み国(みくに)」とは、「神の国」「神の支配」のことです。私たちは、礼拝の中で、「『神の国』が私たちのところに来ますように」と神さまに向かって祈るのです。

確かに、この地上にあって「時間が止まればいいのにな」と思える喜びの瞬間があるのだと思います。美しい花に見とれた瞬間、子どもの成長に感動した瞬間など、それら喜びの瞬間に、私たちは「神の国」を垣間見ます。


8がつのコラム (2024年08月01日)

❀ トントン ❀

給食の後、年少さんのお友だちが私に「トントンして」と言ってきました。恥ずかしながら、どのように返事をしてよいか戸惑っておりましたが、しばらくして、その意味が理解できました。どうやらお昼寝の際に、背中や肩を「トントンして」ということだったようです。実際に「トントン」しながら、園児たちの寝顔を見つめておりますと、そこでふと「わたしとあなた」との人格的な関係性を感じ取りました。つまり言葉にしなくとも、「トントン」することが、お互いに「わたしは、ここにいる」「あなたの側にいる」という呼びかけになっているのだということでした。

聖書には、「インマヌエル」という言葉があります。「神さまは私たちと共におられる」という意味です。それは、単に2千年前の客観的な言葉ではなく、今も神さまが直接私たちに呼びかけられる言葉です。悲しい時、苦しい時、ひとりぼっちに感じる時、神さまは、私たち一人ひとりに向かって、まるで「トントン」するかのように、「わたしは、ここにいる」「あなたの側にいる」と呼びかけられるのです。

私たちがお祈りをするとき、はじめに「神さま」と呼びかけます。そのように神さまも私たち一人ひとりに向かって、「わたしは、ここにいる」「あなたの側にいる」と呼びかけられます。


6月のコラム (2024年06月01日)

〈チャプレンのコラム〉

わたしは、あなたにはなれない?

先日、映画『名探偵コナン100万ドルの五陵星(みちしるべ)』を観に行きました。推理が複雑で、難しくもありましたが、とても楽しませていただきました。映画の内容はもとより、そこで私がとても心に残ったのが、この映画の主題歌aikoの『相思相愛』という歌でした。その歌詞には、次のようにあります。

「あたしは、あなたにはなれない。」

この言葉一つだけでも、さまざまな意味に取れるのではないでしょうか。例えば、恋する二人が、お互い相手の気持ちを知りたいのだけれども、知ることのできないもどかしさから「わたしは、あなたにはなれない」と言っているのだろうか。あるいは、目の前で苦しんでいる人がいたとします。できることなら、私がその人の身になってあげたいのだけれども、それができないでいるという想いから、「わたしは、あなたにはなれない」と言っているのだろうかとも捉えることができます。

いずれにせよ、何か相手のことを大切に想う気持ちから、「わたしは、あなたにはなれない」と言っているように思えます。

聖書には、「自分自身を愛するように隣人(となりびと)を愛しなさい」という言葉があります。ここでは、「愛する」を「大切にする」に置き換えてみると分かりやすいかもしれません。自分自身を大切にするように、相手のことを大切にする。言い換えれば、自分の身になって、相手のことを考え、行動しようとすることの大切さがここで言われております。自分の身になって、相手のことを考え、行動しようする。その気持ちが、「わたしは、あなたにはなれない」という言葉に表われていくのではないでしょうか。

皆さんは、「わたしは、あなたにはなれない」という言葉をどのように考えますでしょうか? また、何かそのような体験はありますか?


4がつのコラム (2024年04月01日)

変わらず、ゆるがず

今年も春を迎え、美しい満開の桜が私たちを出迎えてくれました。この春の時季になりますと、私は森山直太朗の「さくら」という歌を思い出します。

「さくら、さくら、今咲き誇る。刹那に散りゆく運命(さだめ)と知って。」

美しい満開の桜を見るたびに、できればこのままずっと咲いていてほしいと、誰でも一度は思うことなのではないでしょうか。けれども桜の花は、ずっとそこにとどまり続けることはできない。しばらくすれば、「刹那に散りゆく運命(さだめ)」なのだと、そのことを知ったとき、私たちの心の中で何か切ない気持ちがこみ上げてきます。このことは、何も桜の花だけに限ったことではありません。

毎年春が訪れるたびに、桜の花が私たちに教えてくれること、それは、この世界というものが、もろく儚く、常に移ろいゆくものなのだということです。私たち人間もそこから逃れることはできません。いずれ愛する人を失い、そして他でもないこの私も世を去るときが来ます。

けれども、この世界で、たった一つ、変わらないもの、ゆるがないものがあるとすればそれは何でしょうか。もし人間の側にないのだとすれば、それは、きっと神様の側にあるのでしょう。

私たち人間にではなく、神様だけがもっておられる、変わらないもの、ゆるがないもの。聖書の中で、人々はそれをヘブライ語で「エムナー」と呼びました。この「エムナー」こそ、まさに私たちに対する「キリストの愛」でした。

入園、入学、就職のシーズンを迎え、私たちの生活の環境が大きく変わろうとしています。

園のお友達は、新しいクラスに進級します。慣れないことや、不安に感じることもあるかと思いますが、イエス様はいつも、変わらず、ゆるがず、私たちを大切に守ってくださっています。


1がつのこらむ (2024年01月01日)

〈チャプレンのコラム〉

「すべてを忘れて、なお残るもの」

去る20231125()に、聖三一幼稚園の先生方と共に教職員研修会に出席し、『キリスト教保育を学ぶ-子どもと共に守る礼拝-』と題して、小林光先生(熱田教会牧師)の講演を聴く機会が与えられました。

小林先生の講演の中で印象に残ったことは、「すべてを忘れて、なお残るものがある」ということでした。子どもたちがいずれ卒園をして、園生活のことをすべて忘れたとしても、子どもたちひとりひとりの中になお残るものがある。その「なお残るもの」こそが、子どもたちひとりひとりの人格を支える根っこの部分であり、キリスト教保育は、そこに携わっているのだということでした。

「すべてを忘れて、なお残るもの」、それは、ある意味で、私たちがそれぞれの中で普段は気づいていないもう一人の別の自分、言い換えれば「無意識なる自分」であるとも言えるのではないでしょうか。

解剖学者の養老孟司は、現代の脳化社会においては、「意識」の世界を重視し過ぎるあまり、「無意識」の部分が置き去りにされてしまっていると警鐘を鳴らしています。私たちひとりひとりは、自分自身の中にもう一人の別の自分=「無意識なる自分」がいる。その「無意識なる自分」こそが、実は、根っこの部分で「私」を支えているのでしょう。私たちは、キリスト教保育を通して、まさに子どもたちひとりひとりの中にあるそうした「無意識なる自分」に働きかけていくことなのだと思います。

聖三一幼稚園では、毎週火曜日に、園児たちと共に神さまに向かって礼拝をおささげしています。その中で、子どもたちに向かって「神さまは、どんなときもいつも私たちと一緒にいて、守ってくださっています」ということをお話します。子どもたちは、いつも真剣に聞いてくれていますが、いずれ卒園して、そのようなお話のことは忘れてしまうことでしょう。けれども、それでいいのです。それが、いずれ子どもたちが大人になっても、ひとりひとりの「無意識なる自分」の中で生き続け、これからの人生の糧になってくれることを願っております。


12がつのコラム (2023年12月01日)

「草むしり検定」

聖書には「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉がありますが(ローマの信徒への手紙1215節)、これがいかに難しいことか、今触れました「ちいかわ」のエピソードから改めて思わされました。「草むしり検定」に合格した「ちいかわ」は、本当は飛び上がるほど喜びたいのだけれども、となりには泣いている友がいる。逆に、不合格だった「ハチワレ」は、とても落ち込んでいるのだけれども、となりには喜んでいる友がいる。そのようなお互い状況の違う者同士が、共に歩み寄ることの大切さがここで言われているのだと思います。

もうすぐクリスマスがやって来ます。クリスマスは、イエスさまの誕生をお祝いする記念日ですが、私たちが喜んでいる時も、泣いている時も、イエスさまはそのような私たちと一緒に喜び、泣いてくださっています。そのようにいつもイエスさまが私たちと共にいてくださっている救いの出来事、それがクリスマスです。

聖三一幼稚園でも、このクリスマスをお祝いする準備が進められています。聖三一幼稚園に連なるすべての方々にとって、今年も良いクリスマスとなりますようにお祈りいたしております。