2がつのコラム (2025年02月01日)
食前(しょくぜん)の祈り
「静かに目を閉じ、お祈りしましょう。静かに目を閉じ、お祈りしましょう。
天のお父(とう)さま、今ここにいただくごはんを感謝します。アーメン。」
お昼の給食が始まる際に、園児たちの歌声がお部屋に響き渡ります。「天のお父(とう)さま」とは、神さまのことです。「今ここにいただくごはんを感謝します」と神さまに向かって、歌いながら、祈りをささげます。
これは、キリスト教で言う「食前(しょくぜん)の祈り」にあたるものです。聖書の中で、イエスさまも、弟子たちと共に食事をする際に、神さまに向かって「食前(しょくぜん)の祈り」をささげられました。
ごはんをいただくということは、「命をいただく」ことであり、そしてその「命」は、神さまが私たちに与えてくださるものです。私たちは、ごはんをいただくということを通して、神さまから命をいただくのです。その神さまの恵みに感謝するために、「食前(しょくぜん)の祈り」をささげます。
「食前(しょくぜん)の祈り」において、もう一つ大切なことは、みんなで一緒に、ごはんをいただくことへの感謝です。誰かが食べ物を独り占めしない。同じものをみんなで分け分けする。そのように神さまからいただく命をみんなで一緒に分かち合うということは、神さまがいつも私たちに求めておられる「平和」の在り方なのだと思います。
お昼の給食が始まる際に、園児たちも、教職員も一緒に声を合わせて、「食前(しょくぜん)の祈り」を神さまに向かって歌いながら、おささげする。そのことを通して、神さまから命をいただき、それを分かち合うことへの感謝の気持ちが芽生え、神さまと人、また人と人との関係性が養われていきます。
1がつのこらむ (2025年01月01日)
〈チャプレンのコラム〉
成るように成っていく
今年も聖三一幼稚園では、無事にクリスマス祝会を行うことができました。本番を迎えるその日まで、毎日のように、歌やダンス、イエス様のお誕生を祝う降誕劇を、一生懸命練習している子どもたちの姿を見ておりました。
さて、クリスマス祝会の前日、お昼の給食のときに、ある年少さんの男の子がこう言いました。「明日は、みんなの前で緊張をする。」
今まで練習したことがうまくいくだろうか、失敗しないだろうか、そのように不安な気持ちになるのは当然のことなのだろうと思います。同時に、私が感心しましたのは、その男の子が、「明日が本番である」ということに意識を向けながら、それをしっかり自分の心の中に留めているということでした。
私も、この先のことで「うまくいくだろうか」と不安な気持ちになることがよくあります。教会では、毎週日曜日の礼拝に向けて、聖書のお話を考え、また当日の礼拝の動きと流れについてリハーサルを行います。けれども、そのようにしっかり準備を行っても、礼拝本番では、ときどき、言わないといけない大切な言葉を飛ばしてしまったり、順番を間違えてしまうことがあります。
私の恩師が言っておりました。それは、たとえ私たちが「やってしまった」と思ってしまう失敗があったとしても、それも含めて、神さまがそのような私たちのことを「よし」として祝福してくださることに目を向けていくということでした。
もちろん、きっちり準備をして、もし失敗があれば、次はどうすればよいのか、その失敗を振り返り、次へ活かしていくことも必要です。と同時に、大切なことは、「失敗しないだろうか」「うまくいくだろうか」と不安を抱く私たちを、神様が守り、導いてくださるだから、神さまの想いのままに、成るように成っていく。クリスマス祝会でがんばる子どもたちの姿を見て、実感をいたしました。
12月のコラム (2024年12月01日)
〈チャプレンのコラム〉
「わたしたちって人間?」
先日、さくら組のお友だちと一緒に給食を食べていたときのことです。あるお友だちが私にこう質問してきました。「わたしたちって人間?」「先生も人間?」
私は、少し戸惑いながら、「そうだよ」と答えました。というのも、このお友だちの質問の深みを感じ取ったからです。
私たちが人間であることは自明のことであると言えますが、けれども、もし誰かに「あなたは人間ですか?」と質問されれば、「そうです」と答えつつも、もしかすると心のどこかで、「本当にそうなのだろうか」と思ってしまうのではないでしょうか。
その日家に帰って、夕食を食べている時に、妻に「僕って人間?」と聞いてみました。妻からの答えは、「そうなんじゃない(知らんけど)」でした。もし人間でないとしたら、宇宙人?
それはさておき、「私たちが人間である」その確かな証拠があります。それは、お母さんから生まれて来たということです。まぎれもなく私たちは、母親の胎内から、人間としてこの地上へと生まれて来ました。うさぎでもなく、犬でもなく、猫でもなく、人間として、この地上に生まれて来たのです。
けれども、人間としてのこの「わたし」は、自分の意志によって生まれて来たわけではありません。この「人間とは何か」という自己存在の問いに答えていくのが、宗教や哲学の役割であると言えるでしょう。キリスト教では、それは「神さまのご計画」であると捉えるのが、どの教派においても一致した見解です。聖書の中で、使徒パウロは次のように言っています。「神さまが、恵みによって、このわたしを母の胎内から選び分けた。」(ガラテヤの信徒への手紙1章15節)
私たちが人間として、他でもないこの「わたし」として今ここにいるのは、私たちではなく、神さまの恵み、さらに言えば、神さまの「想い」によってなのです。
11月のこらむ (2024年11月01日)
~物語を読むということ~
太宰治の『走れメロス』という小説があります。中学校の国語の教材にもなっており、誰もがよく知っている小説かと思います。あるテレビ番組で安住紳一郎アナウンサーが、この『走れメロス』について、興味深いお話をされていました。
太宰治という小説家は、特に小説の中での状況説明が非常に上手なのだと言います。例えば、メロスがラストスパートをかけたときの描写がそうです。ものすごく速く走るという表現ですが、太宰治は、これを比喩、直喩でもって、誰もが考えようとも考えることのできない仕方で描いています。メロスは、「少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。」
どういうことでしょうか。このことについて真面目に研究をした柳田理科雄という大学の先生がおられます。その先生の研究によれば、次のようになります。コペルニクスの地動説に従うと、太陽のスピード=地球の自転のスピードということになりますから、これが1,300km/hになるそうです。それで、1,300km/hの太陽の10倍のスピードとなりますと、どれくらいになるか計算すると、マッハ11になるのだと言います。これは新幹線のぞみ号の44倍の速さになります。
とても面白い研究ですね。そのように科学的知見ではあり得ないほどの、あえて大きく話をすることによって、物事が膨らみ、それによって本当に伝えたいことが伝わる。それが物語の面白みであるのだと安住アナウンサーは言っておりました。
聖書においても、そのような物語としての描写が色々なところで垣間見れます。例えば、ある日、大勢の人がイエス様のところに集まってきました。夕方になり、みんなお腹を空かせています。そこに5つのパンと2匹の魚がありました。イエス様は、それを5千人もの人々に配り、みんなお腹がいっぱいになったのだと言います。
このように聖書の物語においても、実際にはあり得ないような描写を通して、イエス様の恵みの大きさを伝えようとしています。これからも園での礼拝において、聖書の物語を子どもたちに楽しく読み聞かせていきたいと思います。
10がつのコラム (2024年10月01日)
❀チャプレンのコラム❀
「天国のドア叩く」
京都出身のバンド「くるり(Quruli)」の『ロックンロール』という歌を何気に聴いておりましたら、ふいに次の歌詞が心に響いて来ました。
「裸足のままゆく 何も見えなくなる 振り返ることなく 天国のドア叩く」
「天国のドア叩く。」これは一体何を意味しているのでしょうか。
「天国」と聞くと、まず私たちは、大空を見上げて、空高いところをイメージするのではないでしょうか。聖書においても、天国をそのように空と星の空間として表現している部分があります。けれども、天国にはもう一つの意味があります。それは、象徴的に、神さまがおられるところ、それが「天国」であるということです。そこには、私たちの喜びがたくさん秘められています。
神さまは、単に私たちの遠くにおられるだけでなく、いつも私たちの近くにいて、私たちと一緒にいてくださっています。ですから、神さまがおられるところの天国は、私たちのすぐ近くにあるのです。
うれしい時も悲しい時も、私たちは、神さまにお祈りすることを通して、「トントン」と「天国のドア」を叩きます。その時、目に見えなくとも、神さまがおられるところ、私たちの喜びがたくさん秘められている「天国のドア」が開かれます。
9がつのコラム (2024年09月01日)
〈チャプレンのコラム〉
「時間が止まればいいのにな」
ザ・ハイロウズというロックバンドが2000年にリリースした『青春』という歌を思い出しました。そこに次のような歌詞があります。
「時間が本当に もう本当に 止まればいいのにな
二人だけで、青空のベンチで 最高潮のときに」
校庭のベンチでしょうか。恋する二人が、ドキドキしながら、幸せそうに微笑み合っている情景が、この歌詞から浮かび上がってきます。二人にとって、それは、まさに喜びの瞬間であったことでしょう。この世には、つらく悲しいことがある中で、この喜びの瞬間が過ぎ去らずに、このままずっと続いてほしい。その想いが、「時間が止まればいいのにな」という言葉に溢れています。
聖三一幼稚園の礼拝では、毎回「主の祈り」を唱えますが、その祈りの中に「み国(みくに)が来ますように」という文言があります。「み国(みくに)」とは、「神の国」「神の支配」のことです。私たちは、礼拝の中で、「『神の国』が私たちのところに来ますように」と神さまに向かって祈るのです。
確かに、この地上にあって「時間が止まればいいのにな」と思える喜びの瞬間があるのだと思います。美しい花に見とれた瞬間、子どもの成長に感動した瞬間など、それら喜びの瞬間に、私たちは「神の国」を垣間見ます。
8がつのコラム (2024年08月01日)
❀ トントン ❀
給食の後、年少さんのお友だちが私に「トントンして」と言ってきました。恥ずかしながら、どのように返事をしてよいか戸惑っておりましたが、しばらくして、その意味が理解できました。どうやらお昼寝の際に、背中や肩を「トントンして」ということだったようです。実際に「トントン」しながら、園児たちの寝顔を見つめておりますと、そこでふと「わたしとあなた」との人格的な関係性を感じ取りました。つまり言葉にしなくとも、「トントン」することが、お互いに「わたしは、ここにいる」「あなたの側にいる」という呼びかけになっているのだということでした。
聖書には、「インマヌエル」という言葉があります。「神さまは私たちと共におられる」という意味です。それは、単に2千年前の客観的な言葉ではなく、今も神さまが直接私たちに呼びかけられる言葉です。悲しい時、苦しい時、ひとりぼっちに感じる時、神さまは、私たち一人ひとりに向かって、まるで「トントン」するかのように、「わたしは、ここにいる」「あなたの側にいる」と呼びかけられるのです。
私たちがお祈りをするとき、はじめに「神さま」と呼びかけます。そのように神さまも私たち一人ひとりに向かって、「わたしは、ここにいる」「あなたの側にいる」と呼びかけられます。
12がつのコラム (2023年12月01日)
「草むしり検定」
聖書には「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉がありますが(ローマの信徒への手紙12章15節)、これがいかに難しいことか、今触れました「ちいかわ」のエピソードから改めて思わされました。「草むしり検定」に合格した「ちいかわ」は、本当は飛び上がるほど喜びたいのだけれども、となりには泣いている友がいる。逆に、不合格だった「ハチワレ」は、とても落ち込んでいるのだけれども、となりには喜んでいる友がいる。そのようなお互い状況の違う者同士が、共に歩み寄ることの大切さがここで言われているのだと思います。
もうすぐクリスマスがやって来ます。クリスマスは、イエスさまの誕生をお祝いする記念日ですが、私たちが喜んでいる時も、泣いている時も、イエスさまはそのような私たちと一緒に喜び、泣いてくださっています。そのようにいつもイエスさまが私たちと共にいてくださっている救いの出来事、それがクリスマスです。
聖三一幼稚園でも、このクリスマスをお祝いする準備が進められています。聖三一幼稚園に連なるすべての方々にとって、今年も良いクリスマスとなりますようにお祈りいたしております。